当事者ではない私のダークツーリズム

*この記事はイトグチに2022年7月25日に投稿したものです。

私は今まで福島や陸前高田を訪れた話を書いてきた。東日本大震災の被災地を訪れるとき、被災体験をしていない自分が何を感じればいいのか、感じていいのか、感じた気持ちをどう伝えればいいのか、様々な想いが駆け巡る。

深沢潮の小説『翡翠色の海へうたう』は、「当事者ではない」主人公が「沖縄戦の慰安婦」をテーマに小説を書く奮闘を描いている。

『翡翠色の海へうたう』で描かれる「傲慢さ」

主人公は、契約社員で仕事をしながら小説家を目指している。新人賞にはあと一歩及ばず、次回作のテーマを探していると、ふとしたきっかけから「沖縄戦の慰安婦」に興味を持つ。性差別や性暴力は今を生きる自分には遠いできごとと思いつつ、「気の毒な女性たち」や「沖縄戦の悲惨さ」は書くべき物語だと、沖縄へ取材へ向かう。

慰安所跡や慰安婦をお世話していた人などへ取材を進めるうち、主人公は取材先の女性の一人から、当事者ではない人間がわざわざこのテーマで小説を書く必然性を問われる。

「気の毒っていう気持ちで、物語を作ってしまうのは、傲慢なんじゃないですか」

この言葉は私にとってこの小説の中で一番印象的だった。初めて私が被災地を訪れてみたいと思ったとき「これは私の傲慢なのではないか」と悩んだ記憶を蘇らせた。震災から一年が過ぎ、復興商店街などもでき始めていたタイミングであった。同じ時代に生きる日本人として被災地を見たいと思った。しかしボランティアをする訳でもなくただ「見たい」という理由だけで、当事者ではない自分に被災地を訪問する資格はあるのか、迷惑ではないのか。それは後ろめたさのような感情も混じっていたように思う。

今となっては、あの時に勇気を出して行って良かったと思っている。そんな私の気持ちの変化は「ダークツーリズム」という言葉に出会って少し説明できるようになった。

後ろめたさとダークツーリズム

ダークツーリズムとは、悲劇が発生した場所を訪ねる旅をさす。そういった行為は古くからあったと言われるが、1996年にフォーレーとレノンによって名付けられた。

Foley, M and Lennon, J.(1996),Editorial:Heart of darkness,the International Journal of Heritage Studies 2(4)195-197

Foley, M and Lennon, J.(1996), JFK and dark tourism:A fascination with assassination ,the International Journal of Heritage Studies 2(4)198-211

代表的な場所として日本では原爆ドームが挙げられ、被災地への旅も含まれる。歴史の風化を防ぎ、学びの場となり得るダークツーリズムは、新しい観光のスタイルと注目されている。一方で、悲劇を観光によって「消費する」ことに批判的な意見もある。

この言葉を知り調べるうちに、被災地に限らず今までの私の旅の多くはこれだったのだとしっくり来た。

単に観光の一環で連れてこられて、なんとなく写真を撮って終わりではダークツーリズムとはいえないと個人的には思っている。その地を訪れるだけではなく、主体的な行動があるかどうかが大切だ。どんな出来事があったのか調べる、場所によっては被害者だけでなく加害者についても思いを巡らせてみる、体験を通して自分の考えがどう変化したかを考えるなど。時間をかけてその地で起こった出来事や当事者に向き合うと、後ろめたさは消え、安易な共感でもない、自分の延長線上にあるできごととして、今の自分にできることを考えるようになる。そこまでがダークツーリズムだと、私は思っている。

当事者じゃない私ができること

旅をすればするほど、それぞれの場所や人に愛着が沸くし、その興味は無限に広がっていく。読んだだけ行っただけで分かったつもりにならず、知ろうとし続ける気持ちが大切なのだと思う。

沖縄に関していえば、続けて読みたい本はまだまだある。安田浩一・金井真紀の『戦争とバスタオル』、そして上間陽子の『海をあげる』と『裸足で逃げる』など。

知れば知るほど知らないことが増えていくのを、ダークツーリズムを通して実感している。当事者ではないからこその気づきもある。自分にできることから始めていきたい。

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